【東日本大震災支援委員会 報告2】現地調査報告②

東日本大震災支援委員会 現地調査報告② (2011年3月28日~30日)

28日の午後は仙台市若林区の荒浜海岸に。大津波の被害が直撃し、発生直後から報道で「海岸に遺体が少なくとも200体から300体ある」と伝えられた地区だ。テレビで何度もその光景が流されていたが、現場に着いて、言葉を失った。海岸からまだ3、4㌔はあるだろうか、防風林の松の木が流れ着いている。道路を挟んだ両側に家並みがあったと思われるが、ほとんど跡形もなく、がれきだけが残っている。

海岸に向かって車を走らせるが、平地が続く。タクシーの運転手さんに聞けば、この辺りは風光明媚(めいび)な所で、海外のすぐ近くに新興住宅街が建設されたとのこと。しかし、その住宅街はない。わずかに残っているのは住宅のコンクリート製の基礎部分だけだ。1区画は100坪を超えているだろう、少し大きめの邸宅が並んでいたのだろう。鉄筋コンクリートの2階建て住宅が脆くも崩れ落ち、門柱の表札だけが残っているお宅も。見渡す限り荒涼とした平野を思わせる。遠くに荒浜小学校の4階建て校舎が見える。津波の跡が4階の教室の下まで来ている。おそらく、10㍍以上の水の塊が猛烈な勢いで遡上したのだろう。
「これでは、どこまで走っても津波から逃げられなかったでしょう」。調査員の一人がつぶやき、みんなが頷いた。なぜか、海岸べりの公衆トイレだけがポツンと立っている。夕闇が迫り、余計に寂寥(せきりょう)感を際立たせていた。

荒浜海岸から6㌔ほど内陸に入った所にある仙台市若林体育館。ここに前日の27日、約400人の人たちが近くの避難所から移ってきたという。バスケットボールで2面、バレーボールなら3面取れる面積約1600平方㍍の体育館だ。この床面に段ボールのパーティーションで仕切られた各区画に被災した人たちが身を寄せて暮らす。所々にストーブが焚かれているが、全体としては少し肌寒い。体育館の壁には、被災者の皆さんの健康を気遣うチラシが並べられ、医師や保健師、ボランティアの熱意が伝わってきた。

駐車場では、荒浜地区の出身で今、福島県会津若松市でラーメン店を開いている店主がボランティアで喜多方ラーメン500食を振る舞った。久しぶりの温かい、それも本物のラーメンにお年寄りも子供たちも笑顔を浮かべた。夕方5時半頃から、地元の仙台JAの職員たちが炊き出しのボランティアをすると聞いた。「その模様をデジカメに撮ってください」と前林・神戸学院大人文学部教授が頼まれたのがきっかけとなり、調査隊もボランティアとして手伝うことになった。
メニューは豚汁と炊きたてのご飯。早速、避難している人たちのうち元気な主婦ら約10人が手を挙げ、ご飯にかける鮭、おかか、シソの3種類のふりかけを担当。仙台市内から駆け付けている女子高生ボランティア数人も協力して、避難者に配った。避難者といっても自分たちで出来ることを自分たちでやろう、という意識が見え、非常に心強い思いをした。ただ、ここが開設されてまだ、2日目ということで、ご飯の時間を呼びかける人材がおらず、舩木・神戸学院大社会貢献ユニット専任講師が思わず、「みなさーん。お食事の時間です。豚汁とご飯がありますので、こちらに取りに来てくださーい」と持ち前の大きな声で呼びかけた。他の調査隊メンバーもそれぞれ、ご飯以外のパンなどを配ったり、被災した人たちの話を聞いたりしていた。

神戸学院大社会貢献ユニットや社会貢献学会のオレンジのジャンパーを着込んでいたので、何人かの被災者から「神戸から来てくれたの。ありがとう」と声をかけられ、スムーズにみなさんとのお話に参加できた。やはり16年前の阪神淡路大震災を被災したことを知っておられ、連帯感を感じていただいたのだろうと思う。ある女性は「津波の被害は怖いけど、まあ、いつまでもぐずぐず言っててもしょうがない。これからみんなで力を合わせて生きていかなければ」と話してくれた。
辛い辛い、本当に辛い体験だったが、少しずつそれを乗り越え、生きる気力を、みんなで生きる絆を強くしている、そんな力を感じさせられた避難所だった。
(社会貢献学会広報委員長・安富信)