東日本大震災支援委員会 現地調査報告⑤ (2011年3月28日~30日)
29日の午後からは、東北電力女川原子力発電所で有名な宮城県女川町に向かった。東北大学大学院の柴山明寛助教の案内で、工学院大学グループ4人、神戸学院大グループ4人の計9人が2台のタクシーに分乗して現地へ。仙台から、復旧したばかりの三陸自動車道を北東へ約50㌔。比較的車は少ないが、東松島を抜け、石巻市のインターを降りてからは、災害復旧のためのトラックやダンプカー、自衛隊の車などが多く、ゆっくりと進む。
約1時間半かけ石巻市に入ったが、風光明媚(めいび)な車窓で鉄道ファンから愛されている「仙石線」を走る列車はなく、海岸線に林立するパルプ工場は壊滅的。大きなパルプの巻紙が泥まみれで転がっている。牡鹿半島を右手に眺めながら、石巻市を東に走るほどに住宅の被害が激しくなる。当然のことながら、津波が到達した地区とそうでない地区との色分けだろうが、石巻市では、雑駁な言い方であるが、海岸べりは別にして、仙台に近い西地区の被害が比較的軽微で、牡鹿半島に近づく東地区の被害が甚大なようだ。
女川町の入り口辺りの山の麓に「仮土葬場」と書いた看板が見える。おそらく、身元不明者の遺体を土葬にする場所なのだろう。山の合間を抜けるように坂を下り、午後3時すぎ、町の中心部に入った。見渡す限りがれきの山。中にいくつか鉄筋コンクリート3階から5階建てのビルが残っているだけだ。白い5階ビルの屋上に車が乗っている。少なくとも高さは15㍍以上。この街をそれ以上の津波が襲ったことは間違いない。鉄骨に巻き付くように、がれきがぶら下がっているのも不気味な光景だ。
約20㍍もあるだろう高台に町立女川病院が立っている。下から見ると、ほとんど被害を受けていないように見えたが、車で坂を登って、近づいて驚いた。リハビリセンターと書かれた別棟の1階に車が突っ込んでいる。玄関ガラスは粉々に砕け、浸水した跡も見える。病院もよく見ると、1階はほとんど壊滅状態だ。そうすると、ここの津波は25㍍近くあったのだろうか、と想像できる。公式には20㍍以下だとされているが。高台から港を見下ろすと、わずか5、60㍍ほどで海岸線だ。湾の外を見れば、今は穏やかな海面が見えるだけだが、2週間前は猛り狂った津波の壁が猛スピードで襲ってきたのだろう。1度返した波が次の波と相まって、勢いを増して、高台の上まで到達したのだろう。自然の脅威の恐ろしさを、まざまざと見せつけられた。
工学院大の久田教授らは建築学科で専門が「構造」とあって、鉄骨コンクリートの建物を中心に調査。神戸学院大グループはどちらと言えば、避難所にもなっている病院に関心が深いようだった。わずか1時間程度の滞在だったが、神戸からの津波研究者の姿も見られた。
仙台への帰路についた頃は、悲しいくらいの真っ赤な夕日が迫っていた。大地震から2週間。JR仙台駅周辺の飲食店ではガスは復旧していなかったが、名物の牛タンややきとり屋などは炭火で営業を再開していた。「被災地にお金を落とそう」の趣旨で牛タンを美味しくいただいたことも付記しておく。