【東日本大震災支援委員会 報告1】現地調査報告①

社会貢献学会、神戸学院大学、工学院大学による東日本大震災現地調査報告① (2011年3月28日~30日)

未曽有の大災害となった東日本大震災(3月11日午後2時46分発生、マグニチュード9、最大震度7)。2週間を過ぎた3月28日から3日間の日程で、宮城・岩手両県内の津波被害の甚大な地域を調査した。調査隊は工学院大学から久田嘉章・建築学科教授、山下哲郎・同准教授、村上正浩・同准教授、児島正・NKSJリスクマネジメント社員、神戸学院大学からは前林清和・人文学部教授、舩木伸江・防災・社会貢献ユニット専任講師、四宮千佳子・TKK学び合い連携センター職員、学会から安富信・大阪読売サービス企画編集委員、柴山明寛・東北大学大学院助教の計9人で構成。仙台市太白区の秋保温泉を拠点に津波被災地、避難所、東北福祉大学、ボランティアセンターなどで聞き取り調査などを実施した。以下、そのリポートを届ける。    (社会貢献学会広報委員長・安富信)

神戸学院大グループ4人は先行して大阪空港発山形空港着の便で28日午前中に現地に入った。山形空港から貸し切りタクシーで一路、宮城県名取市へ。東北道は復旧していたが、時速50㌔制限。約1時間半かけて、津波被害が甚大な名取市閖上地区に着いた。がれきの山が堆く積み上げられているのだろう、と想像していたが、景色は全く違った。ほとんど津波に持って行かれたのだろうか、家の基礎部だけが残っている建物が圧倒的に多い。海岸近くの水門にある堤防は高さ3㍍ほど。指定水位1m50、警戒水位2mと赤い線で記されているが、津波は軽々と堤防を越え、4、5㌔先まで遡上していったのだろう。はるか向こうに見える3階建ての民家の上まで木切れが引っかかっている。電柱はなぎ倒され、「津波避難経路」と書かれたコンクリート柱だけが凜と立っているのが、余計に心を虚しくする。5㌔ほど内陸に入った仙台東部有料道路で津波は力を失ったのか、この辺りでようやく漂流物が姿を消す。

ところで、この閖上浜という地は「ゆりあげ」という珍しい字で表現されるが、古来この地は「浜にいかだに乗った観音像が揺り上げられた」との伝説から「ゆりあげ浜」と呼ばれていた。後の仙台藩主伊達綱宗公が寺の参拝の帰りに山門内からはるか東方に波打つ浜を見て、「門の中から水が見えた故、門の中に水と書いて閖上と呼ぶように」と言われたとかでこの珍しい字になったという。国内産水揚げ高一位という赤貝をはじめ、豊富な魚介類が揚がり、朝市も盛んだった。それが跡形もなくなってしまった。

同市はこの閖上地区と増田地区が中心で、避難は増田地区に集中している。名取市民体育館に設けられているボランティアセンターを訪ね、センター長の我妻諭・市社会福祉協議会事務局長に実情を聞いた。
それによると、被害が想定以上に甚大だったため、近隣からのスタッフが集まらなく、資機材や備蓄がそろっていない状況。ボランティアセンターが起ち上がったのは発生から一週間後の18日。社福の職員が5人しかいないので、福祉介護のヘルパーさんたちに手伝ってもらって運営している。そのうちに地元の尚絅学院大の学生たちが応援に入ってくれ、初日のボランティアは160人で、その後毎日増え続けて5日目には300人を超えた。11日目現在で約250人から300人となっている。津波の海水がまだ引いていない場所も多く、ボランティアが行っても安全か、事前の調査をしてから派遣するようにしている。自衛隊の捜索が続いている地区には入れない状態で、必ずしもニーズとマッチしていないのが実情だ。18日から26日の9日間で延べ2352人(実人数1033人)が駆け付けたという。がれきの撤去は専門的な技術が必要で今のところ、ボランティアの仕事は少ないが、今後、仮設住宅が建設されるようになったころに、必要となりそう。ガソリン不足がボランティアの送迎や買い物などに大きな支障となっているという。我妻センター長は「いずれ若い学生さんたちの力が必要になる時期が来ると思う。その時はよろしくお願いします」と話していた。