東日本大震災支援委員会 現地調査報告⑥ (2011年3月28日~30日)
最終日の30日。工学院大隊が東北大学の調査チームに合流し、もう少し建物被害の調査を続けるのに対し、神戸学院大隊は津波被害の甚大な気仙沼市から岩手県陸前高田市、大船渡市の海岸線に向かった。午前8時半に仙台市内を出発し、まず気仙沼へ。直線距離で90㌔以上ある。東北自動車道をひたすら北上し、岩手県一関インターで降り、国道284号線を東に。風光明媚(めいび)な太平洋沿岸の三陸海岸右手に見ながら、しばし、風景に見とれていたが、港の中心地に近づくにつれ、避難所に向かうであろう疲れ切った表情の母親やお年寄りたちの姿が目に入ってくる。マグロやカツオ、サンマの水揚げは全国でも有数で、とくにフカヒレの水揚げは日本一という港町はほとんど壊滅状態だ。港近くに海から打ち上げられた船が横たわり、フカヒレ加工工場は大破。湾を挟んで北側の住宅街は地震直後の火災により、辺り一面、焼け野原と化していた。
気仙沼から大船渡線を遠回りして、約1時間かけて陸前高田市へ。ここは津波の遡上が半端じゃなく、最も調査隊が驚いたのは、海岸が全く見えてこない、おそらく海から5㌔以上はあるだろう山のこちら側まで、津波の浸水跡が残っている。低い山を乗り越えて、さらに息を飲んだ。一面、がれき。それも約5㌔平方㍍はあるだろうか?見渡す限り、がれきが山のように堆く積もっているのではなく、高さ1、2㍍ほどでつながっている。途中、酒造会社が建っていた所だろうか、酒造タンクがいくつも転がっている。タンクは数百㍍にわたって散乱している。がれきの量が思っていた以上に少ないのは、このタンクの散乱ぶりと考え合わせても、相当量が引き波によって海に持ち去られたのだろう。押し寄せる津波、引き返す津波、そのパワーが相乗し、家々や車と一緒に、どれほどの貴重な命が奪われたのだろうか。わずかに市役所やスーパー、NTTのビルなどがぽつんぽつんと残る荒涼たる港町の真ん中で、思わず合掌していた。周辺に人の姿はない。
陸前高田市は演歌歌手、千昌夫さんのふるさと。北隣の大船渡市は同じく新沼謙治さんの出身地。大船渡の被害は海岸部に集中しているが、ここも酷い。2階建ての住宅の上に平屋の家や車が乗っている。大破しながらも少しだけ原型をとどめているビルの壁面に「USA 3/5/1」などと赤い字で書き込まれている。米軍の捜索隊が「ここは捜索しました」という合図だろうか。ありがたい救援活動だが、その赤字の数があまりにも多く、目頭が熱くなってしまった。
三陸海岸を北へ進むにつれ、海からの恵みが生活の大きな糧だった港町がほとんどすべて、津波に飲み込まれていた。海の怖さ、そして自然の脅威を改めて感じさせられる。自然に対峙しても人間が生きられない。いかに共存していくか。復旧・復興の道のりを歩みながら、また、そのことを何度も何度も、かみしめ続けなくてはならないだろう。
(社会貢献学会広報委員長・安富信)