2012年3月実施 東日本大震災 災害支援ボランティアバスの報告

社会貢献学会では、3月23日から26日まで東日本大震災の被災地である宮城県仙台市と亘理、山元両町にボランティアバスを出しました。参加者は多様なメンバーで、大学生は神戸学院、関西、大阪経済、浜松、東北福祉から14人、社会貢献学会員として青森県防災士会、東京、神戸、大阪、三重、宮城などからの社会人14人の計28人が参加。『老若男女』が一堂に会した、初の試みとなりました。
23日午後4時から、神戸学院大ポートアイランドキャンパスで事前研修会が行われ、リーダーの安富、サブリーダーの濱田真由美・神戸学院大修士課程修了ら神戸・大阪組の16人が、堀越京子・TKK学び合い連携センターコーディネーターから活動の心構えなどを聞き、自己紹介をしました。午後7時前にバスは出発、名神から東名高速道を経て、途中、浜名湖SAで浜松大の学生2人をピックアップして、24日午前8時前に、仙台駅東側に到着。ここで、青森・宮城・東京組10人が合流し、現地コーディネーターの菊池健一さんの案内で、仙台市若林区の東通仮設住宅町内会(荒井小学校用地内)を訪れました。

深夜から未明にかけて降った雪が積もっていたので、予定されていた活動、花壇への花の植え付けは中止となり、急きょ、仮設内の生活道路の雪かきとなりました。約1時間の作業で、ほぼ仮設内の積雪は解消されました。この後、集会所で高齢者の方々とぜんざいをいただきながら、懇談会。この仮設には194世帯370人が入居しておられます。荒浜にあった自宅が津波に流された人がほとんどです。同地区では186人が亡くなられたそうです。仮設町内会の大橋公雄会長によると、仙台市内で最大の仮設住宅で、独り暮らしのお年寄りが15世帯あり、大橋会長は「2年間の期限付きでの入居で、非常に苦しい状況ですが、『孤独死を1人も出さない』と頑張っています」とあいさつされました。青森県防災士会が集めた募金の贈呈、インドの子供たちが描いた絵を神戸学院大の竹下奈都美さんが紹介するなど、約1時間、温かい交流を繰り広げました。この仮設住宅で積極的に行っていることは、出来るだけ体を動かすこと。毎朝9時半から15分間、「北国の春」や「われは海の子」といった歌に合わせて歌謡体操をします。また、土曜日の夕方にはカラオケ大会。1人で部屋に閉じこもらないようにしています。地元の小学生たちも遊びに来て、おはじき、けん玉、竹とんぼなどの昔の遊びをお年寄りたちに教えてもらったり、昔の荒浜の話を聞いたりしているそうです。ボランティアで訪れた私たちが逆に入居者の方たちから元気をもらいました。

最初の訪問場所、仙台市若林区の東通仮設住宅
未明の雪が積もり、急遽、作業は雪かきとなりました。
(3月24日午前9時)

東通仮説住宅の集会所で、お年寄りたちに、インドの子供たちからの絵入りメッセージを披露する神戸学院大学の竹下奈都美さん
(3月24日午前10時)

午後からは陸上自衛隊東北方面隊仙台駐屯地を訪れました。もう、誰もが知っていることですが、今回の東日本大震災では、全国から10万人の隊員が被災地で人命救助や遺体捜索、福島原発での活動など獅子奮迅の活動をされました。私たちを案内してくれたのは、及川元・司令職務室広報班長。一般人はまず入れないという隊員食堂で、隊員たちと同じ昼食をいただきました。1食900㌔・㌍と私には少しカロリーオーバーですが、若い隊員たちはモリモリと食べていました。この後、東北方面隊の概略と大震災での活動をPowerPointで説明してもらい、みんな、よく理解できました。
一行はバスで仙台市蒲町のコミュニティーセンターに行き、菊池健一さんから地震直後の避難所の様子や運営の問題点などを聞きました。菊池さんが熱く強調したのは、避難所運営の難しさ。日頃からしっかりとだれが避難所を運営していくのか決めていないと、いざという時に、機能しないと。報道担当者も必要で、避難所同士の情報共有も大切だと力説されました。仙台市議の菊地崇良さんからは、5年間で復興達成を目標とした同市の復興計画について説明を受けました。安全・安心なまちづくりと早期の生活再建を地域の声とともに推進するのが大きな理念だそうです。

陸上自衛隊東北部隊仙台駐屯地で東日本大震災での活動状況を聞くボランティアの一行
(3月24日午後2時)

この後、荒浜地区に建立された慰霊碑で黙とう、献花をして、津波の犠牲になった方々の冥福をお祈りしました。宿泊は仙台市太白区の道中庵ユースホステルで。午後6時過ぎから、振り返りをして、夕食を摂り、お風呂に入って就寝しました。
2日目の活動は亘理郡亘理町と山元町。この日の活動をコーディネートしてくれたのは、元消防士で社会貢献学会員の江川茂さん。亘理郡はイチゴとリンゴの栽培が盛んな地で、津波で運ばれて来た土砂を取り除く作業を望まれました。そこで、亘理町のリンゴ園に8人、山元町に19人が行くことにし、午前7時すぎに宿舎を出発しました。途中の待ち合わせ場所に、大庄司果樹園の園長さんら3人が迎えに来てくれました。山元町ではボランティアセンターで受け付けをしたあと、現地に。ここでも、イチゴ園とその向かいの民家に分かれての作業となりました。

仙台市若林区の荒浜海岸に建立された慰霊碑に献花をするソシエーター。
この周辺で186人の方が亡くなられました。
(3月24日午後4時30分)

民家では、津波で被害に遭った庭木の切り株が30近く残っていて、それを掘り返す作業でした。一見、切り株は小さくて簡単そうに見えましたが、やってみると意外に大変でした。学生10人でスコップやバール、斧を駆使しての必死の作業。それでも、徐々に慣れてきたのか作業は順調に進み、午前中で完了。途中の休憩時間には、このお宅のおじいさんとおばあさんも一緒に話が盛り上がりました。ちょっと方言がわからない所がありましたが。
この辺りのイチゴは甘くて美味しいという評判でしたが、津波が海岸から2㌔以上も押し寄せ、積もった土砂と塩害でダメになりました。117軒あったイチゴ農家のうち復旧したのはわずか17軒。ビニールハウスを再建して、栃木県の品種である「トチオトメ」の苗を育て、最近になって甘い実をつけました。作業はビニールハウスの間の土をならして、大きくて長いビニールシートをかぶせる作業。午前中は雪が残っていたので、まず、雪かき作業をしました。風が強くて、簡単にビニールをかぶせられないので作業小屋の瓦を下ろして、シートの重しに使いました。午後からは向かいの民家組も合流したので、午後2時半までに、すべて作業が終了。あまーいトチオトメを振る舞っていただき、達成感を胸に、みんなで美味しくいただきました。

ボランティア2日目
下記亘理郡山之内の民家で津波で残った切り株を撤去するソシエータたち(25日午前9時)

津波で大きな被害にあったイチゴ農家のビニールハウスを復旧させるソシエータたち(25日午後2時)

リンゴ園は3軒の農家共同畑。サッカー場ほどの広い畑に整然と並んだリンゴの木。剪定して地面に落ちた枝を小さく切って回収する作業でした。それでも、その数は多く、午後3時までの作業で、半分くらいしか処理できなかったそうです。ここでも、ご褒美に甘いリンゴをいただきました。
午後3時半ごろには、JR亘理駅で青森・東京組と涙のお別れ。名残を惜しみながら何枚も記念撮影していました。バス組はこの後、白石市内のスーパー銭湯で汗を流し、夜を徹して東北道、東名高速で帰路に。途中、浜松大の2人とも別れ、26日午前8時すぎには神戸学院大に到着しました。
前林清和・同大学教授による事後研修会では、ストレッチ体操や自律運動で心身のケアに務め、ひとり一人が活動の感想を述べました。何人かはボランティア活動が初体験でしたが、「次も行きたい」と希望し、やはり現地に行かなければ見えない実情があることを再確認した、との意見。訪れた仮設住宅で、お年寄りは元気に振る舞っておられたが、本当はしんどい思いをしているのではないか?と心配する声もありました。東北の被災地には、まだまだ支援の手が必要なことは確実で、今後、学会としても継続的にかつ重点的にボランティア活動をすることが必要であることを全員で確認し合いました。
(社会貢献学会広報委員長・理事 安富信)